津軽為信の人物像 兵法の達人で目的のためなら手段を選ばない人

ぼんごれ

前回:陸奥の国の忍者組織 南部と津軽の争いの火種は津軽為信の謀反だった

今回もラスボス候補、津軽為信の人物像について深く探って行こう。

津軽為信の兵法


ラスボス津軽為信が兵法の達人なのは間違いない。
兵法とは、戦に勝つためには何してもいいんです。そういう時代だった。

敵の城に兵士がいる。それに城の攻略は難しい。
でも城下町の警備は甘い。さらにはその家族がいる。その家族を残虐な方法で倒す。
ここじゃ書けないことは当たり前、やり口が酷すぎるほどお手の物。

そんなことされたら城の警備にあたってる兵士の士気はダダ下がり。
誰だって家族が心配だし、警備どころじゃなくなる。そこを本隊が攻め込む
こうして各地の城主を自害に追い込む。

そんな戦を繰り返して、津軽為信はついに、津軽地方を治めていた南部氏、
石川信直の弟、石川政信に重役として仕えることに成功し、
石川政信に取り入る為に実の妹、久(於久?)を妾(めかけ)として差し出した。

天正18年(1590年)、津軽為信はボス政信と久を宴会に招待して、
ボスが酒を飲んで油断した所に毒を使って倒した。

そして城主がいなくなった浪岡城を強襲・占拠して、津軽地方を手に入れたとある。
その後に大浦為信は津軽為信と名を変え、大名への階段を駆け上がっていく。
慶長8年(1603年)現在の弘前城の着工にかかる。

オイ!ラスボスの風格漂ってるじゃねーかw。自分のボスを毒で!
まあ、こういうことは日常茶飯事だったんだろうね。日本全国さ。う~ん。
それは解るけど、想像もつかないぞw。すげー時代だわw。

ま、こういう話には諸説あるのが世の常。それに俺の間違いも当然あります。
まあ、面白いよ!面白すぎる#!青森を選んで正解だったわ。凄すぎる。

で、こういう戦乱の世には忍者が大活躍するに決まってる。情報収集・暗殺・かく乱と。
忍者として南部さんに付くか大浦(津軽)さんに付くかも重要だね。

ま、忍者の話はこの記事で裏が取れたというか、骨格が決まったというか、
話が見えてきたので、別の記事にしたいと思います。
これなら忍者の記事が書ける!舞台も揃った!役者も揃った!
骨格も決まった!面白くなってきた#!!これなら書けるよ。書ける。

てーことは、この話をまとめると、シリーズの年代は、
天文19年1月1日(1550年1月18日)大浦為信生誕。
 幼名、扇→大浦弥四郎→大浦為信→津軽為信。
永禄10年(1567年)大浦城主になる。
元亀2年(1571年)5月、石川城攻め。大浦為信22歳。
天正16年6月、津軽一帯と外ヶ浜ならび糠部郡の一部を手中に収めることに成功。
天正18年(1590年)ボス石川政信を毒で倒す。
慶長5年(1600年)1月、関ケ原の戦いに東軍で参戦。
慶長8年(1603年)弘前城を着工。
慶長12年(1607年)12月、京都で死去。享年59。
慶長12年(1609年)為信の三男・信枚が後を継ぎ、弘前城を築城。

つまり、
室町時代(1336年-1573年)、安土桃山時代(1573–1603)、江戸時代(1603年-1867年)
までの間の出来事。

さらに室町時代には、南北朝時代(1336–1392)と戦国時代(1467(1493)–1590)がある。
(実際は南北朝時代には生まれてないし、江戸時代もちょっとしか生きてないけどね)
その時代を生き延びたラスボス・津軽為信のいた時代が、シリーズの年代となる!キマッタ!

激動の時代、中世から近世までの戦乱を生き抜いた津軽為信という、
ある意味わかりやすくてゲームに仕立て上げやすい、血気盛んな上昇志向の持ち主と、
南部晴政という、こちらも血気盛んだが名家の出で、
「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われたほどの実力者。

この二人を話の軸にして記事を書いていこう。
古地図に記されていない、ロマン溢れる東北の武将の人物像を知るのは面白い!

これでこのパートは最後です。お疲れ様でしたー。
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Posted byぼんごれ

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